「表記する文体」随聞小話第063回 西池冬扇
コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希
文体はしばしば、「口語」と「文語」にわけられます。そして一般的に(ここが曲者ですが)、「口語」は話し言葉で「文語」は書き言葉といわれます。
なぜ曲者というかというと、俳句の世界では少々意味が異なっているからです。俳句では、「口語」は今私たちが使っている「現代語の文体」、「文語」は「平安時代の文法に基づく文体」という意味で理解して使用する方が多いようです。
どちらの文体を使うのが詠わんとする趣(興趣)の俳句にはふさわしいかと選択するより、文体ありき(文体を決めてから俳句を作る)の作り方の人が多いようです。
私自身のことをいうと、「俳句は五七五のリズム(モーラ)を基本として自然(モノコト)を中心に表現する詩」だと思っていますので、文体は自由だと思っています。現代仮名遣いが嫌いという人はしかたがありませんが、現代の趣を詠うには現代仮名遣いがふさわしい、と選択するのはとてもあたりまえの事です。同じように語句も無意味に古語を使用するのは好みません。それぞれ必然性を持って語句を選択すべきなのです。
神野紗希さんが先日上梓した『俳句は肯定の文学』は「だよね」と思った本でした。


私も、親から誕プレにもらった神野紗希『俳句は肯定の文学』を読みました。
口語俳句の可能性と銘打って、古今の俳人の口語俳句と口語であることの効果が紹介されています、遡ること芭蕉まで。
さまざまのことおもひ出す桜哉
これも「思い出す」が当時的には口語なのですって、たしかにそうかも。
毎年よ彼岸の入に寒いのは 正岡子規
約束の寒の土筆を煮て下さい 川端茅舎