自分が後期高齢者という保険証をもらうようになると、なんだか「生きていてすみませんね」とでもいわせたいのかと思ったりする。「老い」に引け目を感じさせたい連中の陰謀と勘繰りたくなる。しかし現代では「老い」た人は格別珍しいわけではなく、句会にでもいけば半数以上が高齢者だ。確かに身体能力はかつてのようにはいかない。だが、経験と智慧はますます高まってきているはずだ。このごろではITが記憶力の衰えも十分補ってくれるし、自分自身でも、有効な検索をして作業する速度は若い頃より桁違いに早いと感じている。ここはひとつ「老い」が、ある種の楽しさ華やかさ美しさ等々をもたらす価値のあるものだ、一種の興趣だとつぶやく、または声高に叫んでもいいような気がしてきた。
「老い」の興趣、「老い」の良さをみんなの認識にするにはやっぱり表現者がそれを伝えていかねばなるまい。小説や社会学・哲学では今や「老い」は定番テーマ。ふと、音楽ではどうかと考えた。私は音楽の事は中学時代からの友人横田君に相談する。今だに現役で松本記念音楽迎賓館の館長をなされており日本の洋楽会の世話役の一人だ。彼に「老い」の音楽について尋ねたら、即座に池辺晋一郎の交響曲第11番を提示してくれた。池辺晋一郎のことは音楽にさほど興味の無い方でも先だっての日経新聞の「私の履歴書」の連載で読まれた方もあるだろう。実は横田君もだが、池辺君は私の畏友の一人、同じ高校に在学していたことがある。私には池辺本人も忘れただろう思い出がある。在学中にどういう機会だったか忘れたが、彼が私に数枚の五線紙をみせてくれた、彼の作曲した『夢殿』のスコアだ。「どう?」と聞かれ、「いいね、特に次の景に移っていくような旋律がいい」とか答えたような気がするが、彼は「あんまりなあ」とか曖昧に言っておしまい、あの鋭い目で笑って行ってしまった。今から考えると彼とはクラスも別だったのになあ、という不思議な気がする。畏友とはいえ、時々すれ違いに挨拶する程度で、その後の交際はない。だがその『夢殿』のメロディーは今でもはっきり覚えている。
さて池辺晋一郎交響曲第11番を私は聞いたことが無い。当たり前で来る9月15日に池辺氏バースデーコンサートで初演されるのである。なんとか聴きにいきたいものだ。
ポスターを勝手に貼らせてもらいましたが、池辺氏よゆるせ。
冬扇さんと高校同期の大作曲家、池辺晋一郎さんの新作をご紹介した横田でございます。俳句には幼少の頃から憧れを抱きつつ、生来の勉強嫌いで、まず季語で躓き、続いて五七五の研ぎ澄まされた言葉の世界から、読み込まれた何かを受け取る感性に欠けていることに気づき、断念している者が、お邪魔させていただきます。
まず、池辺さんは小学校入学前に身体が弱く、冬扇さんより一歳上ですから、ご承知おきを。
このブログを拝見するに至った動機は、「老い」をテーマにした曲です。
これが大変面白いのです。普通は、死を意識して書いた曲とか、諦念を籠めた曲と思うのですが、冬扇さんはどうも、達観し、ギラギラした欲望を越えた美しい心境を表す曲を求めていらっしゃる。大体本当に老境に浸ったら、創作意欲はなくなる訳なので、ここは、自分の経験を通し、上述の達観路線を表す曲をご紹介せねばならないと。そこで、池辺さんなのですね。実はどんな曲なのでしょうか?興味は尽きません。
私はクラシック好きの人にも訊きました。一番おかしかったのが、「老婆のまつ」でした。これはレスピーギの「ローマの松」をモジったものです。ご参考までSに。
どうおありがとうございました。「老婆のまつ」は笑えます。このごろはこの種の言葉遊びも、「理解」を示さない若い人が増えたような気がします。われわれの世代はみなこの「駄洒落」が好きで得意だったような気がします。そろそろ「親父ギャグ」も「爺いギャグ」になってるみたい。