演奏会の紹介

畏友池辺晋一郎君の交響曲第11番初演

徳島新聞が池辺の交響曲第11番初演演奏会を紹介してましたので、さっそく切り抜きしました

これは聴きにいかな

ボニ踊り 八句 冬扇

雨の夜の祭囃子も川面かな

祭笠連れ立ち急ぐ下駄の音

角曲がり少し哀しき祭笛

ボニ踊り海から路地へ抜ける風

大漁旗振れば輪になる踊り手よ

一丁回りことに賑やか酒屋前

負うた子の両手両足ボニ踊り

漁人なれば沖の暗さに魂を呼ぶ

(阿波踊 8句エッセイ 俳壇)

眼嚢耳嚢 多様性は豊かになることであって欲しい

 昨日は徳島大学の依岡先生の主催する読書会に参加。出席者が各自その時おり気に入った本を紹介するというタイプの読書会で、私は三回目の出席である。時間があっという間に経過し、とても面白い。特に若者達がどういう本を、どのように読んでいるか、その一端を覗き見ることができ私には刺激的である。無論、読書会に出てくる人たちは基本的に本好きであるので、このごろにしては特殊な若者を覗いているのかもしれない。読書をする人が減少しているのは事実らしく、出席者も口々に、このごろは本屋が減少しているといっていた。本屋という業界が成り立ちがたくなっていることが、文化の衰退を意味しているのでなければ良いのだが。

 昔から出版物はありとあらゆる多様な文化を反映していたことは間違いないが、この種の読書会になると、やはり「読書会」らしい内容のものを選択する人が多かったように記憶する。もちろん建前としては昔でも全ての本に対して等しく選択の自由があったはずだが、ハウツー的な内容はなんとなく避けていたし、評論でも当時の若者の価値判断はわりあい輪郭がクリアで、著者の思想にへの好悪からさけられるような本もあった。少なくとも現代の方が多様性を容認するという「自由」度は圧倒的に高い。だが反面相互を批判することを避けるというか、批判精神が薄れてきたような気がする。そうでないことを祈るが、相互の批判精神が鍛えられていないと社会は一挙に全体主義に傾斜するというのは歴史が教えるところである。多様性を認めるというのは、多様な価値の存在を認めることであって、それでお互いに豊になれることであり、相互に無関心になることではない。批判精神を失うようにはなって欲しくない。

 

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徳島市で夏休み子供俳句を開きました

8月6日に徳島市部下振興協会シビックセンター

例年「子ども文化フエスティバル」が催され、「阿波っ子タイムズ」の選者の井上京子先生、永松宣洋先生、斎藤いちご やひまわり俳句会、青海波の俳人の方々が指導してくださり、盛会でした。世話人はひまわり俳句会の生島春江さんがなさってくださいました。

 「37組のこどもたちが参加して、夏の思い出を俳句にした短冊をかきました。」

     あさがおにまいにち水をやるにっか  優雅さん(小3)

     三つ取る全集中でヨーヨ釣り     愛菜さん(小6)

     おとまりかいともだちハブラシわすれたよ  あゆかさん(小1)     

                             (いちご記)

今「ひまわり」ではどんな句が詠まれているか

「WEP俳句通信vol135」(2023年8月14日発行)の特集〈いまどんな句が結社で詠まれているか〉から、ひまわり西池みどり主宰の文を転載しました。

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今、結社ではどんな句が詠まれているか

                                西池みどり

 「ひまわり俳句の信条」は「ひまわり俳句はやさしくて、たのしい庶民の詩である。俳句のよい伝統をたいせつにしながら、すなおな写生をくりかえして、新鮮な叙情の世界にあそぶ。というもので、毎月の表2に必ず掲載している。」

 現代仮名遣いを標榜しており、学校で習った日本語で、誰もが俳句をすぐ作れるというのが親しま

れる要素の一つである。

 近年では特に「新鮮な興趣」とは何かに力を込めた指導を行なっており、句材の幅が全体的に広がってきていると実感している。

 コロナ感染症の3年間はコロナ禍の中での句を詠ったり、ロシアのウクライナ侵攻のニュースで平和を

願う句を作ったり、という、時事的な句が一時目立った。コロナが収束に向かっているこの頃は、以前のように、吟行句が復活してきたように思う。

 通信句会やzoom句会はそのままに、対面での句会もいぜんどおり復活し、新人が増えて活発になってきた。

 さて、「ひまわり」最新号から。

    花は葉にそして毛虫は地上まで   西池冬扇会長

    蟻んこがシロツメ草を灯しゆく

    やれうれし田植汚れの車輪跡

    雨青し一段一字経唱え

    蝌蚪生れぬ弘法さんが掘った池

 身の周りのことを自分独自の言葉で詠っている。

 「ひまわり」珠玉抄から

幹部同人欄より

    一息で七色に散るシャボン玉  新井義典

    心地よく紙裂く音や進級す   岩佐松女

    鉄棒に錆の手ざわり春の雲   多田カオル 

 どこにでもある句材を自分なりに工夫して新鮮な句に

仕上げようとしている。

 

同人欄より

    丸善の角よりさくら通りかな   亀川 岬

 さくら通りはそういう名前の通りというより、桜並木で今咲いているのだと見える。

    目の縁に海の色点す桜鯛       井内胡桃

 鳴門鯛だろう。よく見ればピンク色の鯛の目の縁は青いのだ。

    猪罠の中に咲いたり諸葛菜      清水規代

 猪罠ときれいに咲いた諸葛菜の取り合わせ。

    ぼんやりと花を見ていて見ておらず  青木栄美子

 自分のことを言っているようで花のことを言っている。桜の花の持つ雰囲気を余すところなく伝えている。

    断面は緩い迷路よ春キャベツ     加藤洋子

 半分に切って売られている春キャベツの緩い巻きをしっかり見ている。新鮮な発見。

一般会員欄より

    一脚の椅子の周りの落椿       亀井きみ江

 野外での景なのか、椿がたくさん落ちているが、整然とした景である。俳句の形もきれいに整っている。

    歩け歩けも少し歩け花盛り      佐古和巳 

 リズム感のあるたのしい句。

    青き踏む小さき靴の確かなる     山田美紀

  幼子が早春の野を歩いている。「確かなる」に作者の嬉しさが表れている。

    春暁や高松駅のかけうどん      足立信子

  プラットフォームで食べる高松駅のうどんは有名で、共感する人が多い。

「wep俳句通信」最新号より転載した句

    山間の自由な学校木の芽張る     西岡啓子

    白魚のなお踊りたる四手網      佐野新一

    凍雲やゴール間近のオフサイド    大西良子

課題句 (一般会員の句)

    大鍋を据えて八十八夜かな      今岡京子

このように、時代と共に句柄が変化していはいるが、身の回りや吟行で自由に楽しく作句しているのが

「ひまわり」俳句である。

最後に主宰、西池みどりの句。

    つちぐもりサンドバッグを打ってみる

    花筏解けて樋門をくぐり抜け

    細魚釣る一直線という光

    筍掘り山に大釜据えてあり

    大山蟻急ぎ小蟻を追い越して

    居眠りも寄席の昼席目借時

8月のひまわり俳句抄2

青柿の落ちて転げて正座して     高塚梨花
追い越さる夏手袋の同じ柄      増田勝子
頭垂れ畔行く人の暑さかな      西本公明
ビール酌むもめんか絹か問われけり  松澤勝幸
マルクスもゲーテかの子もある曝書  川原真琴
のうぜんやこれはどこの木となりの木 今倉雅子
物干しのタイダイシャツが揺れて夏  西池氏郷

随聞小話第20回

麦藁帽

  老人が被って麦藁帽子かな  今井杏太郎

 

麦藁帽子は被った途端に今までと違う世界へと私をいざなってくれる。

ゴッホは三十代半ばに何枚もの自画像を描いている。その中でも多いのが麦藁帽の自画像。あの顔はまだ若いのにやけに「老い」の顔に見える。ひょっとしたら麦藁帽というのは「老い」を装うための道具かもしれない。

こんな時にはいろいろなモノコトが頭の中をおとずれる。今井杏太郎の俳句がくるくると頭の中で回転し始めた。そうだ今井杏太郎も「老い」を演出していたのだよな。ただゴッホの「老い」は亡びに向かう暗い「老い」が漂っているが、杏太郎には「老い」を演出するための明るさが漂っているよな。

    その老人耳が大きく麦藁帽  冬扇 

「老い」という興趣

 自分が後期高齢者という保険証をもらうようになると、なんだか「生きていてすみませんね」とでもいわせたいのかと思ったりする。「老い」に引け目を感じさせたい連中の陰謀と勘繰りたくなる。しかし現代では「老い」た人は格別珍しいわけではなく、句会にでもいけば半数以上が高齢者だ。確かに身体能力はかつてのようにはいかない。だが、経験と智慧はますます高まってきているはずだ。このごろではITが記憶力の衰えも十分補ってくれるし、自分自身でも、有効な検索をして作業する速度は若い頃より桁違いに早いと感じている。ここはひとつ「老い」が、ある種の楽しさ華やかさ美しさ等々をもたらす価値のあるものだ、一種の興趣だとつぶやく、または声高に叫んでもいいような気がしてきた。

 「老い」の興趣、「老い」の良さをみんなの認識にするにはやっぱり表現者がそれを伝えていかねばなるまい。小説や社会学・哲学では今や「老い」は定番テーマ。ふと、音楽ではどうかと考えた。私は音楽の事は中学時代からの友人横田君に相談する。今だに現役で松本記念音楽迎賓館の館長をなされており日本の洋楽会の世話役の一人だ。彼に「老い」の音楽について尋ねたら、即座に池辺晋一郎の交響曲第11番を提示してくれた。池辺晋一郎のことは音楽にさほど興味の無い方でも先だっての日経新聞の「私の履歴書」の連載で読まれた方もあるだろう。実は横田君もだが、池辺君は私の畏友の一人、同じ高校に在学していたことがある。私には池辺本人も忘れただろう思い出がある。在学中にどういう機会だったか忘れたが、彼が私に数枚の五線紙をみせてくれた、彼の作曲した『夢殿』のスコアだ。「どう?」と聞かれ、「いいね、特に次の景に移っていくような旋律がいい」とか答えたような気がするが、彼は「あんまりなあ」とか曖昧に言っておしまい、あの鋭い目で笑って行ってしまった。今から考えると彼とはクラスも別だったのになあ、という不思議な気がする。畏友とはいえ、時々すれ違いに挨拶する程度で、その後の交際はない。だがその『夢殿』のメロディーは今でもはっきり覚えている。

 さて池辺晋一郎交響曲第11番を私は聞いたことが無い。当たり前で来る9月15日に池辺氏バースデーコンサートで初演されるのである。なんとか聴きにいきたいものだ。

 ポスターを勝手に貼らせてもらいましたが、池辺氏よゆるせ。

慈愛・進取の碑

関寛斎の記念モニュメント

 関寛斎のことは司馬遼太郎がたびたびその著書(『誇張の夢』『街道をゆく・阿波紀行』『街道をゆく・北海道の諸道』等で述べなかったら、一部の人にしか存在が伝わらなかったであろう。

 維新後徳島で民間の医者として赤ひげ先生を地でいったような活動をした関寛斎の診療所は今の城東高校の敷地内にあったそうである。うれしいことに城東高校(1902年徳島高等女学校として設立)では創立90周年時に記念事業の一つとして寛斎を顕彰する『慈愛・進取の碑』を建立した。だが、この碑は学校のキャンバスの中にあるので普段は一般の人の眼に触れにくい。

 実は昨日は司馬遼太郎の100回目の誕生日である。偶然にも、その日に、産経新聞の記者の方が司馬遼太郎生誕100周年記念の企画で『街道をゆく』の取材に来られた。それで、徳島経済研究所の里常務理事と寛斎の胸像にご案内することになったのだが、ちょうどよい機会だからと城東高校のモニュメントも見せてもらいたいということになった。藤本校長先生や元校長の亀井先生にお願いしたらば、快くお受け下さり、モニュメントをみせていただいた上に建立当時の資料などを見せていただくことができた。朝から激しかった台風直前の風雨が不思議にやんだのも、偶然とはいえ印象深い。校長室では、皆で関寛斎のドラマティックな人生こそ大河ドラマにふさわしいなどと話がはずんだ。

眼嚢・耳嚢 「平和の文化」に叱られる

🌻 炎熱や触るるを拒む民喜の碑  冬扇

 本日は広島の原爆忌である。私は涼しいクーラーのある我が家に居てTVの中継で平和祈念式典に参列させてもらった。広島市の松井一実市長は「核抑止論は破綻していることを直視し、為政者に脱却を促すことがますます重要になっている」と訴えた。ウクライナをはじめ世界に戦争が絶えず、地球は崖っぷちの危機的状況にあるという事実はそのことの重要性を示している。であるが、現実の世界は危機の度合いを増している。

 子どもたちの呼びかけがあった。私はそれを聴きながら自分の中学高校の時代を思い出していた。夏の暑さがいつも呼び覚ます思い出である。あのころは身の回りに戦争の影響がまだ残っていた。中学の頃友人たちと平和のこと安保条約のことをよく語り合った。特に夏休みには友人たちと夜遅くまで語り合ったものだ。高校生になったたころは原水爆禁止運動がもっとも盛んだったころである。当時、原水禁運動の象徴である折り鶴バッチをつけるのが流行し、女生徒はブラウスの胸に、男子生徒は学生帽の周囲にいくつもの折り鶴バッチ(記憶では五色あり、黒が一番人気があった。)をつけるのがおしゃれであった。

 広島におとづれた時の記憶はいつも炎天下の平和公園である。若い頃の句をまとめた句集『8505』を久しぶりにめくってみた。たしか呉の友人を見舞いにいったついでに広島公園に立ち寄ったのを思い出したのである。

 当時の感覚が生で蘇った。平和公園には原爆詩人原民喜の碑がある。碑には〈遠き日の石に刻み/砂に影おち/崩れ墜つ/天地のまなか/一輪の花の幻〉とある。私は目頭が熱くなり、そっと碑を撫ぜようとした。その瞬間「アツッ」と私は手を引っ込めた。火傷をするくらいに炎天下の碑は熱くなっていたのである。だがその感触より、直感的に民樹に叱責されたような気がしたことが脳裏に読みがえったのである。

 「平和文化」という言葉がある。去年10月広島で開催された第10回平和首長会議総会で提唱された言葉と思う。私はこの言葉の意味を「文化は平和に貢献すべき」であると捉えた。それも、民樹の碑に叱責されたような、自省の言葉として感じてしまう。

冬扇句集『8505』から(85年広島5句)

八月の骨むき出しに原爆堂

油蝉三匹やめば五匹鳴き

炎熱や触るるを拒む民喜の碑

我が影が被爆の壁に大西日

蜻蛉の死してひらたく吹かれおり