🌻 人並みの道は通らぬ梅見かな 寛斎
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今年は司馬遼太郎の生誕百年にあたるという。彼の誕生日は8月7日である。その日に大阪の新聞の記者が関寛斎の碑をおとづれに徳島に来るという。ただの偶然とはいえ不思議な縁を感じる。関寛斎はさわやかな魅力をたたえた幕末から明治にかけての人物である。高潔の士としかいいようがない。あちらこちら日本中渡り歩いたので、鳥に例えたら鷹というところだろうか。徳島では藩医であり、千葉や奥州戦争での蘭方医としての活躍、また維新後には栄爵を放棄し再び徳島の地で民間の治療所を設立した。さらに驚くべきことは72歳を過ぎて北海道の開拓事業に従事する、そのいずれをとっても稀有な人生である。
その寛斎の魅力を今までで世に伝えた文学者は二人いる。一人は徳富蘆花であり、もう一人は司馬遼太郎である。特に司馬遼太郎が「街道をゆく」の中で寛斎を紹介したことは、埋もれかけていた彼の生きざまを伝えるきっかけとなったのではないか。徳島では栄爵を捨て医は仁術を地でいくような活動をした。「徳島の赤ひげ先生」、「関大明神」という敬称がそのことを示している。とはいえ、時代が移れば、人々の心の中だけの人物は次第に忘れ去られる。モニュメントはそれらの記憶を呼び覚まし生きながらえる役割をはたすことがある。徳島に関寛斎の胸像ができたのはついこの間だが、それも司馬遼太郎の「街道をゆく」の良い波及効果だったと思う。
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以前何度か私も書物の中で寛斎に触れたことがある。『時空の座拾遺』の中の小文もその一つだ。下に載録するので読んでいただけたらうれしい。
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23 関寛斎の道
鷹柱という季語がある。サシバが渡りの時に集結し、多数の個体がまるで柱のように上昇気流に乗る様子である。我々俳人には<鷹ひとつ見つけてうれしいらご崎 芭蕉>で伊良湖岬の鷹はあまりにも有名である。
季節になると私の結社の投句にちらりほらりと鷹の句が見える。 伊良湖岬あたりまで出かけるのか、熱心だな、と思っていた。ところがテレビでサシバの渡りの番組をみたらどうも違っていた。サシバの渡りコースはいくつかあるが、もっともポピュラーなコースが伊良湖・紀伊半島・淡路島・四国・豊後水道・大分・佐多岬のコースだそうだ。佐多岬からはまた南方へ飛ぶ。なるほどサシバが四国へ来たときに鳴門あたりで観察するというわけだ。テレビの解説によると渡りのコースは主に二つあり一つのコースは千葉県あたりから始まっている。「ほう千葉から徳島ね」。その時、千葉と徳島との道から私はある人物のことを思い出していた。
茶色に変色した半世紀も前に読んだ文庫本が私の手元にある。徳富蘆花の『みみずのたはごと』である。その中に関寛斎という人物が登場する。私が最初に関寛斎という名前に出会ったのはこの本である。関寛斎はそれほど著名ではない。私もすぐ名前を忘れた。でも不思議なことにその後、関寛斎の名前に私は良く出会ったのである。千葉で、北海道で、そして徳島で。人生ではそんな巡り会いもある。こちらがぼやっとしていても、向こうから押しかけてくるような出会いが。
関寛斎は詩人でも歌人でも俳人でもない。幕末の人、蘭方医、北海道開拓者。紹介すると概ねそのようになる。だが単にそれだけでは私の記憶に残らなかっただろう。
関寛斎は幕末という時代にあって時代の雰囲気とは違う不思議な生き様の軌跡を描いた興味深い人物、と今の私は思っている。しかしもともと『みみずのたはごと』に登場した時の印象はそうではない。ただの風変わり爺である。蘆花は描く。
【明治四十一年四月二日の昼過ぎ、妙な爺さんが訪ねて来た。北海道の山中に牛馬を飼って居る関と云う爺と名のる。鼠の眼の様に小さな可愛い眼をして、十四五の少年の様に紅味ばしった顔をして居る。長い灰色の髪を後に撫でつけ、顎に些の疎髭をヒラ/\させ、木綿ずくめの着物に、足駄ばき。年を問えば七十九。強健な老人振りに、主人は先ず我を折った。】
徳富蘆花は関寛斎とトルストイの話をしたそうだ。蘆花とトルストイの交流はそのころから有名だったのであろう。(私が小説の舞台、東京世田谷の恒春園を訪れたのは1960年前半だ。当然蘆花はいない。トルストイの手紙が陳列されていて興奮した記憶がある)。そのあと蘆花は交流を続け北海道の十勝にまで関寛斎を訪問している。
次の出会いは千葉の佐倉順天堂記念館である。そこに資料がある。関寛斎は現在の千葉県東金市で百姓の長男として生まれる。18歳の時佐倉順天堂に入塾、蘭方医としての道を歩んだ。幕医松本良順も同門である。長崎に遊学した。
私の勤めた会社の工場が千葉にあり、東金や佐倉に訪ねる機会があった。でも情けないことに蘆花の家を訪ねた爺と順天堂の蘭方医が同一人物であることが当時はピンと来ていなかった。
関寛斎は72歳の高齢で北海道の開拓に志す。道東の斗満原野、現在の陸別町、極寒の地である。さぞや苦労をしたに違いない。そのときの歌が残っている。<世の中をわたりくらべて今ぞ知る阿波の鳴門は浪風ぞなき>。実感だったのであろう。
私の北海道での関寛斎との出会いはまことに記憶が頼りない。阿寒湖にいった折りに陸別町を通ったはずである。日本一寒い町とか、オーロラの見える町という記憶があるから。そこには関寛斎診療所もあるし資料館もあるはずだ、銅像も建っていたかも知れない。しかしその時も、陸別町の開拓の祖関寛斎と漢方医関寛斎や蘆花を訪れた爺は結びつかなかったのである。
それが一挙に結びついたのは徳島へ私が移住してまもなく関寛斎の銅像の前に立ったときのことである。徳島の関寛斎像はいかつい顔をして原書を持った阿波藩の御殿医としての姿である。「そうだ、関寛斎は御殿医だったのだ」と思ったとき恒春園を訪れた爺さんと順天堂の寛斎と開拓者の関寛斎がピント合わせの像のように一致して新たな感動が走ったのである。
阿波藩御殿医関寛斎は藩が新政府側に与したために倒幕戦争に参加する。その後新政府から奥羽追討戦争で奥羽出張病院頭取を命ぜられる。帰国後徳島医学校を創設した。その後新政府へ出仕するがすぐ野に下り徳島で開業し、家禄と士族の籍も奉還する。医学の理想を求めた彼は開業医を30年続けて「関大明神」と敬い慕われた。そして72歳の時北海道の開拓を志したのである。
関寛斎、彼は医学者としての「成功の道」を自ら捨てている。次には安らかな老後の生活の道も抛つ。そして北海道開拓を志す。その決断の本当の意味は知るよしもない。時空の座に関寛斎を招いて是非聞きたいことだ。ただ医学者の道から開拓者の道へ進んだ後の彼の理想はトルストイ主義的農村社会の実現にあったと思える。開墾して設立した関農場で働く人たちが各自十ヘクタールを所有する自作農になることを目指し、積善社という理想的農牧村落を作ろうと考えていた。しかし家族との確執等理想の実現は夢に終わったようである。
その関寛斎の俳句が一句だけ知られている。徳富蘆花に送った辞世の歌にまじっていたという。
人並みの道は通らぬ梅見かな
関寛斎は北海道斗満の地で服毒自殺する。82歳。
(201101)